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はてなブックマーク - 私はここに立っているだけ~「まごころ広場うすざわ」代表臼澤良一さんに聞く~

「まごころ広場 うすざわ」からほど近い、まごころの里仮設住宅内のキューブハウスでお話しを聞いた。キューブハウスはまだできたばかり。集会室、談話室として利用されている。
中にはいると岐阜の団体から盛岡経由で贈られたペレットストーブ※1が燃えていた。
ガラス越しにちろちろと炎が見えてほっこりする。また、片隅には全国から手紙を添えて送られてきた「手紙文庫※2」が置かれている。


「『まごころ広場 うすざわ』は、5月2日にオープンしました。うすざわは地名です。私とは関係ありませんよ。そこは震災後、人の集まる場所だったのです。5月半ばまでは遺体安置所があり、7月下旬までは、自衛隊や消防の基地になっていました。8月初めまでは避難所もありました。
ある日、夕方五時頃この場所に私がいると、70才ぐらいの女性が訪ねて見えました。広場は4時までだったのでもう閉まっていたのですが、『臼澤さん、あなたがここにいるから、集まれるのですよ』と言っていただきました。鍵を掛けている集会所には人が来ないのです。いまは、連絡があれば40~50分で駆けつけられるように、そう考えて暮らしています。」

仮設は孤立しがち、と聞いていますが。
「ドアを閉めてしまうと顔がみえませんからね。みんなで集まって編み物したりすると女性は元気になります。男性は…難しいですね。一人暮らしで元気の無かった男性のSさんに、ここの管理人をお願いしたら、元気になってくれました。男性は目的がないとダメですね。」

大槌の復興ビジョンがいろいろ出ていますが。
「ここが商業地区、ここが居住地区、とかエリアを分けた復興計画が提案されていますが、私はそれは大槌には合わない、と思っています。震災前、大槌の人口は16,000人ぐらい。このうち約1割が死亡し、2,000人ほどが現在町を出ています。しかも、4割が高齢者です。だから、まごころ広場のようなものを中心に置いて、小規模の店舗を増やして、下駄履きで暮らせる町がいい、と思います。」

今、遠野まごころネットの副代表として活動していらっしゃいますが、震災前から今のような皆さんをまとめる仕事をしていらしたのですか?
「いえいえ、とんでもない。私はむしろ1人が好きでした。(釜石市役所を)定年退職した後、毎日母ちゃんに味噌にぎりを2つ作ってもらって、山へ行っていました。トンボや野鳥を1日中観察して、楽しく暮らしていました。」

そこにあの大震災だったのですね。
「我が家は、飼い犬のたろうまで含めて、なんとか1人も流されることなく助かりました。いくつもの偶然に助けられて命を救われた、と思っています。でも周囲の方々は、ほんとうに沢山亡くなっています。家ごと流されていくご近所の人も沢山見ました。避難所にたどり着いてみれば、お子さんを流されて半狂乱のお母さんや、夫とはぐれて呆然としている女性、もう身の置き所がなかったです。ご無事でよかった、と声を掛けられるのも辛かったです。そこで避難所の世話役として活動することに決めました。
人は1人では生きてはいけません。避難所から仮設に移って、いったんできかけていたコミュニティがまたばらばらになりました。仮設にはいろんな地区の人がばらばらに入居していますから。このばらばらになっている人たちを繋いでコミュニティをつくっていかないと。」

「今一緒に活動している遠野まごころネット代表の多田さんとは、震災前に一度お目にかかっていましたが、震災後、私が世話役をしていた避難所に多田さんがたまたまみえて、偶然再会したのです。日本社会事業大学の山口幸夫先生にも沢山助けていただいています。他にも本当にいろんな方が、向こうから現れては私を押してくださるのです。私は、ただ立っているだけです。」
まるで、南総里見八犬伝のお話しのようですね。
「あぁ、そうですね。八つの玉が自然と集まってくるような。本当にそうです。前世でなにかご縁が合ったのかもしれませんね。そういえば、地震にあった玄海島の漁村の回復の話を聞くために、先日は九州まで行ってきました。このご縁も大槌にボランティアで来てくださった方が繋いでくださったものです。なんの伝手もない、と思っていたところにつながっていきました。2005年の福岡県西方沖地震でいったんは全島避難した玄海島が、3年後には希望者の方全員が島に戻られました。大槌でも漁業の集落はそういうかたちでコミュニティごと再生しなくちゃならないと思っています。」

「ボランティアで来てくださる方にもいつも言っているのですが、ここは、汗を流す場所ではない、苦しんでいる人に寄り添って、手をさしのべる場所です、と。例えばお医者さんは薬や手術で病気や怪我を治すけれど、それだけでは命は救えない、と思います。私は医者ではないですが,苦しんでいる人と苦しみを分かち合うことはできます。たとえば家族5人のうち、3人を亡くした、という方には、もう抱きしめるしかないんですよ。寄り添って、コミュニティを作る手伝いをするのが、今、生き残った私に与えられた仕事です。家内も賛成してくれています。いずれ仮設住宅が無くなっても、この活動は一生続けていきたい、と思っています。」


2012.2.23 伊藤朋子

▽リンク 
まごころ広場うすざわ http://otuchihiroba.jugem.jp/

記事内注
※1 ペレットストーブ http://green-glove.jp/category/pelletstove
※2 手紙文庫 http://tonomagokoro.net/archives/1614

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