



















~ 神奈川の力を被災地に ~
東日本大震災によって岩手県下閉伊郡大槌町吉里吉里地区も大きな被害を受けた。旧大槌中学校体育館で避難所生活をはじめた芳賀さんは、津波に押し流された家々の廃材から薪を作り、避難所での風呂燃料を作ることから活動をはじめた。この薪作りは、避難所の人たちを元気にし、その後「復活の薪プロジェクト※1」として、全国へ販売され、復興資金となる。NPO法人吉里吉里国※2はここからスタートした。
吉里吉里地区周辺には、漁業者が所有する人工林が多くあるが、その大半は植えっぱなしの放置状態。間伐などの手入れがされず、日の差し込まない、元気のない状態だそうだ。お話しを伺った大槌町給食センターの裏山も、そのような杉林だ。地面は黒いままで暗い。芳賀さん達NPOのメンバーはボランティアと協力して、所有者から無償で借り受けたこの森の、間伐作業を行っていた。切り倒した木は、一定の長さに裁断して、太いものは建築材に、細い物は割り箸や木工材に、端材は薪に、そして葉は煮出してアロマオイルに、と様々な用途に活用されていく。1tの杉の葉からは約1㎏のアロマオイルが取れるという。この生産物が吉里吉里国の収入となっている。林業の仕事はきつそうだが、女性ボランティアも多い。この日も女子大生が3人、うち1人はタイからの留学生だった。鳶口を使って丸太を移動したり、枝を集めて運んだりの作業を楽しそうにやっていた。震災からの色々を話してくれる芳賀さんは、すべてを淡々と受け止めるような大きな印象がある。1本1本の木を指さしながら語る口調はやさしい。「私はもともと自動車整備士でしたけど、山の仕事が好きで数年前に林業の仕事に就きました。人生、一つの仕事だけじゃ、つまらないですから。」
芳賀さんは九州の出身。「もう住み始めて35年になりますが、ながらく余所の人扱いでした。妻は地元の人間なので、そのうち○○さんの旦那さんに昇格した。芳賀さん、と呼ばれるようになるまでずいぶん掛かりました。正彦さん、と名前で呼ばれるようになったのは、避難所で共同生活をしてからですよ。」「若いころには青年海外協力隊でエチオピアに行きました。ユニセフの天然痘撲滅キャンペーンに参加して現地の車の整備を担当していました。」その後東京で知り合った奥様と、パプアニューギニアでまた自動車整備の仕事をしていたそうだ。「永住するつもりでしたが、独立後、政情不安定になって、やむなく帰国して、妻の実家のある吉里吉里に住み始めたのです。」
避難所での生活も、エチオピアでの暮らしを思えば全然平気だった、という。こういう豊かな経験が、今の芳賀さんの笑顔を作ったのだろうか。
「森は人を癒すんです。都会から多くのボランティアがやってきて、きつい作業を喜んで一緒にやってくれます。それによって都会での疲れを癒して元気になって戻っていく。そして再びこの森へ帰ってきます。森は地域とボランティアを結ぶ仲人です。」
「手作業は、効率は悪いですが山を痛めない。この土地では、林業と漁業の両方をやることで、豊かに暮らせるはずです。」森は海の恋人、というぐらい森と漁業は関係が深い。吉里吉里の森の所有者に漁業関係者が多いのもそのためだ。ただ、現在はどの森も手入れがされず、放置されている状態だという。この森を再生させたい、というのが芳賀さんの思いだ。林業大学校を開いて自分の山を自分で管理する自伐林家を育てたい、そして都会人の癒しの場にもなりたい。塩害で立ち枯れた杉を伐採してログハウスを建てたい。芳賀さんの夢はどんどん広がる。
2012.2.23 伊藤朋子
記事内注
※1 「復活の薪プロジェクト」 http://kirikirikoku.main.jp/cn19/pg133.html
※2 NPO法人吉里吉里国 http://kirikirikoku.main.jp/
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